不快を避け、快を求めるのが、人間行動の大原則。
大学に入ることも、結婚も就職も、すべては快を求めるための手段である。
お金や名誉や学歴も、気持のよさを得るための手段である。
学歴やお金という手段をいくら手に入れても、悦びと感動が得られない。(生きるための手段と目的ととはまた別の次元)
恋も食事も旅行も、人は気持がいいからする。
気持のよさを求めて努力するのが人間本来の姿なので、
もし、それを「わがまま」と解釈されて責められたら、
死ねと言われていることと同じになってしまう。
なお、こういうことを言うと、
「人生そんなに甘くない」とか「好きなことばかりしては生きられない」と反論する人がいるが、こういう人は勇気がなくておのれの快を求められなかった人である。
人に嫌われるのが怖くておのれの快を遂行し続けることができなかったためである。
そんな自分の勇気の無さを認めたくなくて、巧妙に言い訳している。
その言い訳がバレては困るので、自分以外の人が悦びを求めて行動し始めると、あわてて「それはわがままだ」と言って制止しようとする。やまんばのような人である。
さて、人は、快を求める衝動に従って(導かれて)行動の意思決定をし、そして実践して、さらなる「気持ちの良さ」を手に入れたら、ますますその人と「会いたい」という衝動が強くなり、更に会って更に大きな気持ちの良さを手に入れて…とポジティブフィ−ドバック回路が働く。
こうした悦びの感情や衝動をおこさせる人のことを「好きな人」と称している。
「人が好き」という感情は、カレ−が好きというような具体的対象物があるのではなく、相手との関係性が気持ちいということに由来する。
心の交流である。
互いの心のふれあいが気持ちいいのであって、具体的な何かが気持ちいいわけではない。
「美人だから好き」という気持ちが長続きしない理由もここにある。
心の触れ合いがなければ、絶世の美女でも三日で飽きてしまうだろう。
逆に言えば、好きであり続けるためには、心の触れ合いが気持ちよくないとダメである。
心の触れ合いという関係性は目には見えない。
さわることもできない。
それゆえ、人の感じる「好き」という感情の大きさと、自分の感じる「好き」という感情の大きさを比較することは不可能だ。
唯一可能なのは、自分の感じる悦びや感動の大きさが、以前よりも深く大きくなった時である。
たとえば、自己分析をすることによって自分自身の現実が変わると、急に感動が大きくなることがある。
きのうと同じ音楽を聴いても、今日は魂がふるえるような感動が得られることがある。
その時、私たちは「ああ、感動が深くなったなぁ」と自覚できる。
しかし、それでも、その感動の大きさを他者と比較することはできない。
つまり「私はあなたよりも大きな感動を得ていると思う」などという議論は成り立たない。水掛け論となる。
「うれしい」「気持ちいい」という言葉は、元来抽象度が非常に高い上に、きわめて個人的な体験に基づく感情なため、あなたが言う「好き」と私が言う「好き」の中身(質と量)が同じとは限らないのである。
同じ理屈で、男女間における相思相愛というのは実は幻想である。
相思相愛を望む気持ちはわかるが、そもそも、そんなことを考えているうちは真実の愛は語れない。
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夫が一人になりたいのは、私や娘の存在が不快だからだろうか。
転職活動していることは、会社が不快だからだろうか。
新たにこれからも心を触れ合わせませんか。
夫婦の形を作っていきませんか。
一人ではどうしようもない思いも、二人で一緒に考えれば楽になるし変化すると思うよ。
一人の楽しみは、二人一緒に楽しむと倍以上に楽しくなれるよ。
さらに、私たちには小さな娘もいて三人一緒なんだよ。
両親の件については、どうしようにもない思いがあって自分の中でがんじがらめになっていたけれど、今は深く反省しています。
hiroが好きなので、私はさらに変わります。
何があってもhiroのすぐそばでhiroの味方になり、応援したいのです。
大学に入ることも、結婚も就職も、すべては快を求めるための手段である。
お金や名誉や学歴も、気持のよさを得るための手段である。
学歴やお金という手段をいくら手に入れても、悦びと感動が得られない。(生きるための手段と目的ととはまた別の次元)
恋も食事も旅行も、人は気持がいいからする。
気持のよさを求めて努力するのが人間本来の姿なので、
もし、それを「わがまま」と解釈されて責められたら、
死ねと言われていることと同じになってしまう。
なお、こういうことを言うと、
「人生そんなに甘くない」とか「好きなことばかりしては生きられない」と反論する人がいるが、こういう人は勇気がなくておのれの快を求められなかった人である。
人に嫌われるのが怖くておのれの快を遂行し続けることができなかったためである。
そんな自分の勇気の無さを認めたくなくて、巧妙に言い訳している。
その言い訳がバレては困るので、自分以外の人が悦びを求めて行動し始めると、あわてて「それはわがままだ」と言って制止しようとする。やまんばのような人である。
さて、人は、快を求める衝動に従って(導かれて)行動の意思決定をし、そして実践して、さらなる「気持ちの良さ」を手に入れたら、ますますその人と「会いたい」という衝動が強くなり、更に会って更に大きな気持ちの良さを手に入れて…とポジティブフィ−ドバック回路が働く。
こうした悦びの感情や衝動をおこさせる人のことを「好きな人」と称している。
「人が好き」という感情は、カレ−が好きというような具体的対象物があるのではなく、相手との関係性が気持ちいということに由来する。
心の交流である。
互いの心のふれあいが気持ちいいのであって、具体的な何かが気持ちいいわけではない。
「美人だから好き」という気持ちが長続きしない理由もここにある。
心の触れ合いがなければ、絶世の美女でも三日で飽きてしまうだろう。
逆に言えば、好きであり続けるためには、心の触れ合いが気持ちよくないとダメである。
心の触れ合いという関係性は目には見えない。
さわることもできない。
それゆえ、人の感じる「好き」という感情の大きさと、自分の感じる「好き」という感情の大きさを比較することは不可能だ。
唯一可能なのは、自分の感じる悦びや感動の大きさが、以前よりも深く大きくなった時である。
たとえば、自己分析をすることによって自分自身の現実が変わると、急に感動が大きくなることがある。
きのうと同じ音楽を聴いても、今日は魂がふるえるような感動が得られることがある。
その時、私たちは「ああ、感動が深くなったなぁ」と自覚できる。
しかし、それでも、その感動の大きさを他者と比較することはできない。
つまり「私はあなたよりも大きな感動を得ていると思う」などという議論は成り立たない。水掛け論となる。
「うれしい」「気持ちいい」という言葉は、元来抽象度が非常に高い上に、きわめて個人的な体験に基づく感情なため、あなたが言う「好き」と私が言う「好き」の中身(質と量)が同じとは限らないのである。
同じ理屈で、男女間における相思相愛というのは実は幻想である。
相思相愛を望む気持ちはわかるが、そもそも、そんなことを考えているうちは真実の愛は語れない。
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夫が一人になりたいのは、私や娘の存在が不快だからだろうか。
転職活動していることは、会社が不快だからだろうか。
新たにこれからも心を触れ合わせませんか。
夫婦の形を作っていきませんか。
一人ではどうしようもない思いも、二人で一緒に考えれば楽になるし変化すると思うよ。
一人の楽しみは、二人一緒に楽しむと倍以上に楽しくなれるよ。
さらに、私たちには小さな娘もいて三人一緒なんだよ。
両親の件については、どうしようにもない思いがあって自分の中でがんじがらめになっていたけれど、今は深く反省しています。
hiroが好きなので、私はさらに変わります。
何があってもhiroのすぐそばでhiroの味方になり、応援したいのです。
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