■女性が傷つく場合

女性の弱点は、愛されないこと、無視されること、大事にされないこと、いたわってくれないこと、女性として認知されないことである。男性は、地位や名誉さえ手に入れれば人は自分を肯定してくれると考えているので、女性のこうした不安を理解することは難しい。

例えば、女性は、自分の性的魅力に対する不安は男性の何百倍もある。
男性はB起さえすれば性交できるチャンスがあるが、女性はチャンスが到来しても、自分の魅力で男性をB起させられないと性交できないからである。
これは女性としては最高にみじめなことである。
この不安は、男性にはなかなかわからない。
女性もこんなに露骨に心配しているわけではないが、もっとも気にしていることである。
それゆえ、自分は男性をB起させられるほど女としての魅力がないのではないかという不安を刺激されると、女性はパニックにっもなり、ヒステリックにもなる。

だから、自分の美貌によほどの自信があるごく少数の女性を除いて、多くの女性は自分の容姿に対してはかなり過敏になっている。
冗談でも不用意に「おまえの鼻はヘンだなあ。赤鼻のトナカイみたいだね」などとからかおうものなら、その時は平気な顔をしていても、その後トイレで泣いているかもしれない。「そんな鼻しているからモテないんだよ。ふられたことあるだろう」などと言われたら、もう立ち直れない。

男性は、多少の顔の不出来くらい仕事や地位で充分カバーできるという前提でしゃべっている。

しかし、自分の魅力に対する不安が大きい女性にとっては、精神の安定がかかっている重大事件なのである。
男性と女性の特性の違いには、精神的なものと肉体的なものとがある。
それゆえに古来から男性と女性は互いに互いの特性を活かすことで協力しあってきた。
それが夫婦という家族形態を作った原動力である。
いくら男女同権や男女平等を叫んでも、本来ある性差が無くなるわけではない。
これを否定してしまったら恋愛や結婚を否定することと同義になってしまう。

男性と女性は、別に夫婦でなくても、協力しあえば相補的に互いの欠点を補い合ってとてもいいパートナーになれるのだが、しかし、理解し合うことは非常にむずかしい。
なぜなら、住んでいるココロの世界、自我の安定の要因があまりにも違うからだ。
この違いを知らないために、男女が傷つけあってしまうことがある。
傷つけるつもりがなくても、異性を傷つけてしまうのである。

■男性が傷つく場合
男性にとって、自分の男性性を受け入れることは比較的たやすいが、自分が男であることを確認することは難しい。
女性は、これも逆で自分が女性であることを確認することは比較的簡単である。
なぜなら、女性の場合生理があるし、年頃になるとみんなが女性として注目するようになる。何の努力をしなくても、ただ成長しただけで世間は注目するのである。いやがおうでも、自分が女性であることを意識させられてしまう。

しかし、男性の場合、中学校に上がった頃から、何かしないと黙殺されてしまう。学業成績がいいとか、スポーツの成績が優秀だとか、絵や作文が上手いとか、なにか秀でたところがないと誰も注目してくれなくなる。これは大変に怖いことである。
女性とはまるで正反対の出来事である。しかも、小学生の頃は、かわいい男の子で通っていても、中学生になったら誰もかわいがってはくれなくなる。
その点、女の子は逆に中学に行けばより女らしくなるので、ますますかわいがられるようになる。
つまり、男性というのは、思春期以降、自分の存在価値を見いだすことがむずかしくなるのである。
何か社会から賞賛されることをしなければ、自分の存在が軽くみられて、抹殺されてしまう危機感を覚えるのである。

この危機感を女性が共感するのはむずかしい。

男性はこうした抹殺の危機があるために、社会的地位や名誉にすがるようになる。
たとえば、自分は○○大学を卒業した、とか、△△会社の部長とかの肩書きである。
たとえビリで卒要しても、あるいは形だけの部長職であってもかまわない。
社会のみんなが認める形であれば、それで十分満足してしまう。

しかし、女性の場合、社内で肩書きをあげてもあまり喜ばない。
男性の十分の一くらいしかうれしくない。
女性は実質本位なので、よりいっそう感謝され、より注目され、より尊重されるなど、現実的な利益(現実的な快感)がないと満足しない。現にある会社で、女性社員に意欲的に働いてもらおうと、多くの女性を管理職に昇格させたが、この試みはみごと失敗した。男性社員なら手放しで喜ぶところである。しかし、彼女たちは「地位が上がっても、何も変わらない」と不服だったのである。権限が多少増えたことくらいでは、彼女たちには利益として映らなかったのである。男性の発想で対処して失敗した典型例である。

この男女の違いは重要である。
なぜなら、女性は社内の地位よりも、実際の快を重視するのに対し、男性はなによりも地位を最優先として考えるのである。当然、行動にも大きな影響を与える。

たとえば、ここに同期よりも昇級の遅れている男性社員がいるとする。同期はみんな係長になったのに、彼はヒラのままだと仮定しよう。当然、気にするし悩む。だが、この悩みは女性にはなかなか理解できない。
女性はこう質問する。「平社員のままだとなにか仕事に差し障りがあるの」
男性は答える「いやない」
「係長はどこが違うの」
「係長手当が5千円でるところが違う」
「じゃああなたは、たった5千円の差で悩んでいるの」
男性はここで答えに困ってしまう。
女性に、悩みの本質が5千円と指摘されると、なんだかバカみたいなことで悩んでいたようにも思えてくる。しかし、彼は名刺に「係長」と印刷できることが夢だったのだ。昇格せずに給料を5千円値上げしてもらっても、係長昇進ではないのである。たとえ給料が下がっても昇進を手に入れたいほどなのだ。
では、なぜ昇進にそれほどの価値があるのか。
それは彼にも明確に答えられない。だが、確実に係長昇進は彼に大きな安心感をもたらすのである。
社会に自分が受け入れられているという安心感なのである。
男性特有の安心のネタなのである。
こういうことを通じて自分という存在に自信をもてるようになるのである。
その安心と自信は、1万円払ってでも買いたいくらい価値のあるものなのである。
女性の化粧や洋服と同じと考えたらわかりやすいだろう。
女性は、昇級と引き替えに減給されたら嫌がる人は多いが、しかし、男性は必ずしもそうではない。
少々なら減給されても、人の上に立ちたい。肩書きが欲しい、と考える人は少なくないのである。
それは、必ずしも見栄っ張りという理由だけではない。
自我の安定という切実な問題に因るのである。
人の欠点が許せない。人の欠点が気になる。という態度にこそ問題がある。
「私もうれしい、あなたもうれしい」という関係が成立していれば、相手の欠点は気にならないものである。
カラクリは2つ
?互いに尊重しあっている関係なら、互いにいいところを認めあっている関係でもあるため、欠点は微々たる問題でしかない。例えば、人のいいところをバレーボールとすると、欠点は粟玉くらいの大きさでしかない。
バレーボールという長所が見えない人が、粟玉程度の欠点を大げさに取り上げてあれこれ言うのはナンセンスである。
「私もうれしい、あなたもうれしい」という関係は、互いの欠点を無視することによって成り立つ関係ではなく、互いのいいところを認めあうことによって相手の欠点が気にならなくなる関係である。

?自分の醜さ、弱さ、狡さを知っている者は、人の欠点を許せる人である。しかし、知らない人は許せない。
しかも、おのれの愚かさを知る者は、おのれの長所も知っている人である。
だから、人のいいところを見抜ける。だから、互いのいいところを刺激しあい、引き出しあい、認め合って、人と交わろうとするのである。互いの長所を引き出し合う関係である。
人のいいところというのは、悪いところよりも何百倍も素晴らしい。
よって、欠点を直すよりは、長所を引き出す方がはるかに建設的である。
長所の見える人は、必ず建設的なことをする。長所の見えない人ほど、批評は上手でも人のやる気を失わせる。
理想のコーチや上司というのは、欠点を指摘することが上手な人のことではなく、人の長所を引き出すことが上手な人のことをいう。
一方、自分の愚かさを知らない者は、自分の素晴らしさも知らない人なため、人の長所を見つけることもできない。その結果、人の欠点しか見えない。だから、付き合えば付き合うほど相手が欠点だらけの人間に見えてきてイヤになる。
その結果、人とは浅く広く付き合うのがいいのだ、という苦し紛れの人生哲学を吹聴するようになる。悲しい。

愚か者とは、己の愚かさを知らない人のこと。
己の愚かさを知っている人は、愚か者ではない。
愚か者は、自分自身の欠点が許せなくてイライラしている。また、自分のいいところも見えないので余計にイライラして人に怒りをぶつける。悲しい。

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夫が読んだら、自分のしたことを棚に上げてと言われそうだけれど、今日(昨日)見つけた言葉です。
夫は何にイライラしているのだろう。
私は夫に「どうして結婚したいと思ったか。そして、離婚したいと思うのか考えてよ」と1ヶ月前言った。夫は気にしていないと思うのだけれど、私は知っている。その一言、6文字に夫は気づいたことがあるだろうか。他の人も私と同じ言葉を言ったので驚いた。

私達の関係は、これからなんだと思う。
悦びを介した人間関係でないと、愛や信頼は育たない。それゆえ、恋人や親友と楽しい話や感動した話で盛り上がれないと、二人の関係は深まらない。
人の悪口や愚痴でいくら盛り上がっても、人間関係は形成されない。
会話の6割以上が、愚痴や人の悪口で占められる人は、親友は一人もいないと思っていい。
逆に、会話の6割以上が、楽しい話、感動した話で占められる人は、人と愛や信頼を育んでいる人である。

だが、そうした喜びを媒介とした人間関係を作るためには、まず、自分自身が喜びを得る必要がある。一人で楽しめる何かをして喜びを得ないと、人に語れる悦びもないからだ。
とにかく楽しいことをすることである。
はじめは、試行錯誤でいい。無理してでも楽しいと思われることをすることが重要だ。
そうして、たくさんの悦びを集めると、無性に誰かとその悦びを分かち合いたくなる。
ぜひあの人に語りたいと思う人こそ、親友や恋人になれる人だ。

一人で楽しめる何か、を見つけるコツは、楽しい時は、大きな声で「楽しい!」と絶叫することだ。
できるだけ大きな声で叫ぶことである。
うれしい時も同時に、「うれしい!」と絶叫するのだ。
おいしい時も同時に、「おいしい!」と叫ぶことだ。

楽しいことをしていない人ほど、「うれしい」という言葉を発していない。
発していないからますます何をしている時が一番うれしいのかわからなくなるのだ。

ココロで思っているから口に出さなくてもいいだろうと思うのは間違いである。

うれしい、楽しい、気持ちいい、うまい、という快の感情は、しつこいほど、繰り返し口に出して言った方がいい。
2002年8月18日に書いた日記
家族の愛の流れをひとことで表現すると、「父→母→子」となる。母親が家族の中心であり、母親がもっぱら愛情をそそぎ世話もするが、しかし、愛情の起点は父親である。

子供の世話という行為だけに着目すると、母親が子育ての主役のように見える。
だが実は、父親の愛が母親(妻)に流れないと、母親から子には愛が流れない。

なぜなら、父親が母親を愛さないと、母親の心は安定しないからだ。夫に愛されていない妻は、イライラしてしまい、イライラしている人は、決して人を愛せない。
たとえ我が子でも愛せない。怒りと愛は正反対だからである。

夫に愛されて妻が穏やかな心になれない限り、子供を愛することができないのだ。
ただし、物理的に父親がそばにいなくても、夫に愛があれば問題はない。母親は子供を愛せる。だから子供は、母親の安定した心を見れば、父親の愛の存在を母親を通して確認することができる。

家庭がうまくいくには、夫の妻への愛が不可欠であり、父親がしっかりしているとすべてうまくいくのが家庭である。

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娘が誕生してから、母子家庭の日があると、夫がいなくても何とかなるって思っていた。
でも、夫から別れを告げられて、それが過信だとわかった。

好き

2005年7月6日 ココロ
不快を避け、快を求めるのが、人間行動の大原則。
大学に入ることも、結婚も就職も、すべては快を求めるための手段である。
お金や名誉や学歴も、気持のよさを得るための手段である。
学歴やお金という手段をいくら手に入れても、悦びと感動が得られない。(生きるための手段と目的ととはまた別の次元)

恋も食事も旅行も、人は気持がいいからする。
気持のよさを求めて努力するのが人間本来の姿なので、
もし、それを「わがまま」と解釈されて責められたら、
死ねと言われていることと同じになってしまう。

なお、こういうことを言うと、
「人生そんなに甘くない」とか「好きなことばかりしては生きられない」と反論する人がいるが、こういう人は勇気がなくておのれの快を求められなかった人である。
人に嫌われるのが怖くておのれの快を遂行し続けることができなかったためである。
そんな自分の勇気の無さを認めたくなくて、巧妙に言い訳している。
その言い訳がバレては困るので、自分以外の人が悦びを求めて行動し始めると、あわてて「それはわがままだ」と言って制止しようとする。やまんばのような人である。

さて、人は、快を求める衝動に従って(導かれて)行動の意思決定をし、そして実践して、さらなる「気持ちの良さ」を手に入れたら、ますますその人と「会いたい」という衝動が強くなり、更に会って更に大きな気持ちの良さを手に入れて…とポジティブフィ−ドバック回路が働く。
こうした悦びの感情や衝動をおこさせる人のことを「好きな人」と称している。

「人が好き」という感情は、カレ−が好きというような具体的対象物があるのではなく、相手との関係性が気持ちいということに由来する。
心の交流である。
互いの心のふれあいが気持ちいいのであって、具体的な何かが気持ちいいわけではない。
「美人だから好き」という気持ちが長続きしない理由もここにある。
心の触れ合いがなければ、絶世の美女でも三日で飽きてしまうだろう。
逆に言えば、好きであり続けるためには、心の触れ合いが気持ちよくないとダメである。

心の触れ合いという関係性は目には見えない。
さわることもできない。
それゆえ、人の感じる「好き」という感情の大きさと、自分の感じる「好き」という感情の大きさを比較することは不可能だ。
唯一可能なのは、自分の感じる悦びや感動の大きさが、以前よりも深く大きくなった時である。

たとえば、自己分析をすることによって自分自身の現実が変わると、急に感動が大きくなることがある。
きのうと同じ音楽を聴いても、今日は魂がふるえるような感動が得られることがある。
その時、私たちは「ああ、感動が深くなったなぁ」と自覚できる。

しかし、それでも、その感動の大きさを他者と比較することはできない。
つまり「私はあなたよりも大きな感動を得ていると思う」などという議論は成り立たない。水掛け論となる。

「うれしい」「気持ちいい」という言葉は、元来抽象度が非常に高い上に、きわめて個人的な体験に基づく感情なため、あなたが言う「好き」と私が言う「好き」の中身(質と量)が同じとは限らないのである。

同じ理屈で、男女間における相思相愛というのは実は幻想である。
相思相愛を望む気持ちはわかるが、そもそも、そんなことを考えているうちは真実の愛は語れない。

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夫が一人になりたいのは、私や娘の存在が不快だからだろうか。
転職活動していることは、会社が不快だからだろうか。

新たにこれからも心を触れ合わせませんか。
夫婦の形を作っていきませんか。
一人ではどうしようもない思いも、二人で一緒に考えれば楽になるし変化すると思うよ。
一人の楽しみは、二人一緒に楽しむと倍以上に楽しくなれるよ。
さらに、私たちには小さな娘もいて三人一緒なんだよ。

両親の件については、どうしようにもない思いがあって自分の中でがんじがらめになっていたけれど、今は深く反省しています。
hiroが好きなので、私はさらに変わります。
何があってもhiroのすぐそばでhiroの味方になり、応援したいのです。

母なるもの

2005年7月5日 ココロ
母なるものの基本も、父なるものと同じく受容と共感と支持である。

だが、父なるものとは異なって、受容と共感と支持をベースに子供と一体化(和合)し、呑み込んでしまうのが母なる世界である。
呑み込まれた子供は、母と一体となることで母に守られる。

クジラに呑み込まれた子供を想像するとわかりやすい。
子供は、母というクジラの体内にいることになるので、
母が自分を守ることは、子供を守ることを意味し、
逆に母が死ぬことは自分も死ぬことを意味する。

母と子は運命共同体。

母が生きようとすることは、子供が生きることとイコールなのである。
子供は必死に生きようとする母を見て、ああ自分は守られていると確信するのである。
この確信が気持ちいいのだ。
母は生きることで子供を守るのである。

人が誰かと一体になったとき安らぎを感じるのは、母親との気持ちのいい一体感を連想するからだ。
人が宇宙と和合したくなるのも、同じ理屈である。

母なるもののもう一つの特徴は、自分の産んだ子供なら、たとえ犯罪者であっても愛する、と言う無条件の肯定である。
それは、どんな反社会的な行動をしていてもその命を肯定する、という絶対肯定の愛なのである。

しかし肯定的な母なる愛情が欠けると、自分は生きる価値がある人間なのだろうか、この世に存在しても良いのだろうか、と不安になる。

母なるものが不足し、共感もされず、母に恨みをいだいている人は、母のもう一つの象徴である食事の問題、摂食障害になりやすい傾向がある。

共感されていないと、おいしいのかまずいのかもわからなくなるし、空腹と満腹さえ区別がつかず、精神的飢餓感だけが異常に残ってしまうからである。

子供は生きる意欲を母からもらい、生きるための知恵は父からもらう。
そして母からは呑み込まれることによって守られ、
父からは軍隊から護衛されているように守られて、
子供は大いなる安心を得るのである。

これがないと、子供は生きることが恐くなる。

なぜなら、みんなが敵に見えるし、自分は誰からも守られていないという二重の恐怖が襲うからである。

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hiroはちゃんとお母さんに守られてきたよね。
・・・私はまだ母が怖い。気分によって傷つけられそうで、とても怖い。
この恐怖を補ってくれたのは、hiro。
hiroがいなくなったら、私の居場所はもう無い。

父なるもの

2005年7月4日 ココロ
威厳のある恐いお父さんとして振舞うことは、『父なるもの』を持っていると言うことにはならない。
外観だけ父親らしくふるまっても、それは決して父なるものを子供に出せたと言うことには決してない。

父なるものの基本は受容と共感と支持。
そしてこれをベースにして子供を愛し守るのが父だが、その守り方に特徴がある。

父は子供から一歩離れたところで敵と戦うことによって子供を守ろうとする。従っていざとなったら自分の命を捨ててでも外敵から守ろうとする。自分の命を否定できる強さ、それが父の愛である。

父なるもののもう一つの特徴は、『いいものはいい、しかし、悪いものは悪い』と判断し、悪いところは断固として否定する強さである。

つまり子供に対して受容と肯定と支持をしながらも、子供が自然の法則に逆らうような危険な行為や、社会の秩序を乱すような悪行をしたとき、それを愛でもって断固否定すること、それが父なるもののもう一つの特徴なのである。

従って、父なるものとは、常に判断と決断が伴う。

冷静かつ客観的に現状を把握・分析し、それに基づいて的確な判断と決断をするのである。
子供と一体にはならないが、常に社会の情報(政治や経済、国際情勢など)を仕入れて、しかるべき時に備えるのである。

誤解のないように添えるが、女性に判断や決断の能力がないと言っているのではない。
しかし、女性週刊紙と男性週刊誌を比べれば、興味の違いが歴然としていることがわかるはずだ。そういうところに女性のホンネは出るからである。
雑誌社もそれを知っているからそういう内容にする。
実際、女性の興味に焦点を当てると売れる。女性週刊紙の政治や経済の記事は男性週刊誌と比較すると極端に少なくなる。
すべてのものと和合することを特徴とする女性にとっては、男性ほど判断や決断を必要としないのだ。
むしろ総合力を生かした直感でもって、自分の気に入った人と一体となることに悦びと興味を示すのである。

さて、子供に父なるものが不足していると、判断と決断が出来なくなる。
恐くて行動できなくなる。
特に新しい行動をすることを怖がり、変化を怖がり、未知なるものを恐れ、昨日と違った生き方をすることを恐れるようになる。
悪い意味で保守的になる。
前例にこだわる人間といってもよい。

また自分が間違ったことや、不自然なことをしているのかどうかも区別できなくなるので、目の前の欲望にズルズルと流されて、その日暮らしになってしまう。

今、このさみしさを穴埋めできたら明日のことは考えない、という刹那的哲学になってしまうのだ。

しかも、途中で、これはやってはいけないことだと言うことに気がついても、自分の力では止められない。

これが父なるものが欠けた人の最大の悲劇なのである。

幸せ恐怖症

2005年6月28日 ココロ
2002年8月1日に書いた日記

『悦びがたくさん手に入るような世界で生きることが怖い』というもの。=未知なる世界、つまり愛と信頼の世界に入り込むことが怖くなる。

なぜそんなナンセンスな恐怖があるのか?

それは過去において、自分が悦びを手に入れた時、親に嫉妬されたという苦い経験があるから。
親からの嫉妬というのは、否定のサイン。
だから、そんな残酷なサインをもらうくらいなら、悦びなんて要らない!と思ってしまうのだ。

それに、自分は適度に哀しい方が、親も友達もやさしくしてくれる、という事実が幸せ恐怖症に拍車をかける。・・・・・

今日から日記再出発します。

私は幸せ恐怖症です。
3年前、克服できつつあると思ったけど、まだ抜け出せない現実にいることに気が付きました。
自分の両親が苦手なまま。さらには夫の両親も苦手なまま・・・。

昨夜、夫から別れを告げられました。
いい夫婦とはどんなものか。うまくいっている夫婦はどんなものなのか。夫婦関係とは一体何なのかを考えながら、自分自身のココロを整理してゆきたい・・・と考えます。

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